紛争とか軍とか戦闘とか。友人、知人、出会った人が話してくれたことのメモ。
「爆撃も、だんだん慣れてくるっていうか。夜中に爆撃があっても、眠くて眠くて、ベッドの中から起き上がれなくて、このまま寝ていて死んだ方が起きて逃げるよりいいって思ったりした。」南オセチア、10代終わりか20代初めの男性。彼が小学生のころ、ソ連邦が崩壊したころ民族紛争が起きていたオセチアの首都に住んでいた頃の経験。
就職難民で国連へ
今から40年前、30年前に日本を出て、国際機関で働いて腕一本で出世して行った先輩女性達。そんな彼女達に、どうして国連で働くようになったんですか、と聞いたら、「私、就職難民だったのよ」の答え。日本で就職活動しようにも、就職試験では一番でも面接で「女は採らないから」。普通に仕事をしたいと思った女の人たちが亡命してたどり着いた先が、コクレンでした。昔から、普通に仕事をしたいと思って難民化した日本女子の、難民救済装置だったんですね、コクレン。
その就職難民女子@国連、時代によっていろいろです。「国連女子、進化の過程」として、自分の身の回りで観察した感じを、きわめて主観的にまとめてみましたよ。
第一世代:戦後、日本が世界に羽ばたこうという時代に先駆けて海外留学などするも、国内では受け皿がなく亡命した世代。今の時代にはあり得ないような超エリートバックグラウンドも入れば、腕一本で上まで行った人も。年齢もあるが、組織の上層部に腕一本でたどり着いた豪傑たちが多い。また、一ドル360円時代に国連勤務を開始したため、その財力も後の世代とは比べ物にならない。ただ、国際機関があまりに日本の世間と遠い時代だったからか、彼女達の活躍が日本で知られることはまだあまりない。(60代)
第二世代:緒方貞子さんがUNHCRのトップになるなどし、国連職員というのが世間に知られ始めた時代に国連に新人で入った世代。ちまたに流布する、「帰国子女でキラキラ系」な国際機関女子のイメージにぴったりはまる世代でもある。父親が外交官、商社などで、幼少から海外で過ごして、大学からストレートで海外の大学院へ(親のお金で)行き、そのまま就職、というパターンが多かった。国連に来なかったら外資系金融、という、もう一つの亡命先もあった。(50代)
第三世代:バブル崩壊後の世代。フツーの家庭出身者多し。第二世代がストレートで新卒で国連に入ったのに反し、数年の日本での社会人経験を経て、日本で働くことの辛酸もなめてから転職して国連に亡命した女子が増えた。現在の中間管理職を担う世代。東日本大震災を機に日本との関わりを深めたもの、深めようとして絶望してまた海外に出たものと、日本との関係にも多様性がある世代。(30〜40代)
第四世代:不況が長引き、逆に内向き傾向が強まっている世代。海外脱出を試みる人たちは、東南アジアなどの日本より安く住める地域へ亡命を果たしている。また、本来なら国連に亡命してくるような女子は、大組織である国連よりも、起業や NGOなどでソーシャルな活動をしようとする傾向が強まって来ている。(20代)
と、まあ、時代時代にそれぞれ特徴はありますが、しかし、「本国日本の組織で働きづらい、というか働くチャンスすらない」ということは、各世代の女子にまたがり共通しているのかな、と。
燃え尽きる前に。Love thyself instead of getting burned out
周りの友人や同僚で、紛争復興地、いわゆる「現場」、「フィールド」って呼ばれるところにいって、疲れきり、燃え尽きる人達が少なくない。
(いわゆる、ってまどろっこしい言い方をしたのは、私は、現場ってどこにでもあると思うから。本部だって、官僚体質と戦う現場だ。)
最近も、スーダンから休暇で来た友達が、顔面半分帯状疱疹になって跡が残って帰って来た。あちらで2週間入院していたというが、ハルツームの医療設備では、おそらく先進国でなら簡単に手に入る薬も手に入らなかったろう。
私の周りには、紛争地で「平和構築」を仕事にする人達が多い。そして、意外なことに、政治学がバックグラウンドでこの分野で仕事をする人は、少ない。武装兵士の社会復帰も、一度始まったらそこそこ進んで行く「プロジェクト」と思って疑わない人が多い。
一方、政治学から入っている人は、武装解除なんて当然政治プロセスなんだから、頓挫して当たり前、と思う傾向があるようだ。うまく行く、という期待がそもそもないので、プロセスが頓挫しても、がっかり度が少ない。
でも、あまり政治的に捉えない人達は、うまく行かないと、当の政府や武装勢力側に対して、「裏切られた」「能力・やる気がまったくない」などと苦い思いをどんどん膨らませ、進まないプロセスにもいらいらし、結局ストレスで自分がつぶれてしまう、気がする。
あと、体力があってがんばり屋さんが多いので、自分の体と心の限界ギリギリまで長期間がんばり、突然、ポキッと行ってしまったり。
体に出る症状がある人達の他にも、長期的疲労から、人とのコミュニケーションがおかしくなってる人、躁鬱症状がハッキリ出ている人、日常のささいなことから仕事までにおいて、的確な意思決定ができなくなっている人、いっぱいいる。
でもね、思うんですよね。誰も、あなたに燃え尽きて欲しくない、って。自分が自分をいたわらなかったら、他に誰があなたをいたわってあげられるの?って。
他の人を助けるのは、崇高なことだと思う。
だけど、まずは、一番大事な、自分を愛してあげませんか。
そして、ちょっと余裕ができたら、自分の周りの家族、友人、近所の人を、愛しませんか。
そしたら、それが、めぐりめぐって、世界のためにもなると思う。
(初出:2011年3月)
大人と子供。東西南北。
ここ数日、あちこちの友人と子育てや幼稚園の違いについて話す機会多し。
1)スイスVSラテン
たとえば、ラテン系の子達(アルゼンチン、ペルー)が驚いていた、スイスの幼稚園でのおもちゃをめぐるルール。
ジュネーブの幼稚園では、家からおもちゃを持ってきていい。おうちのにおいが嗅げて安心するから。(かわいいーーー)だけど、持ってきたおもちゃには名札をつけるのが決まりなんだって。マイケル君のだったら、マイケルって名札をつけ、他のほかそれで遊んじゃいけないんだって。
一方、ペルーやアルゼンチンでもおもちゃ持込可だが、持ってきたおもちゃはひとつのところに集められ、みんなで共有するんだそう。他の子にも貸してあげようね、と、自分のものをほかの子と分け合う教育なんだって。
スイスは、小さい頃から個人主義を叩き込まれるんですなあ。そういう話は、こないだスイス人の元カレくんともしたばかりだ。家族でありながら個人主義でもあるので、家族の中でもなかなか打ち解けられない人多いって。
2)アフリカ
アフリカの人たちって、ほんっと子供好きだと思う。こないだ通勤途中、アフリカ系の小さな男の子がお母さんと乗っていたら、乗り合わせてたアフリカ系の人たち、寄って行って次々に話しかけたり、遠くからニコニコ見つめていたり。
「子供は宝だ!」って思ってるし、人生で大事なのは何より家族、という人非常に多し。女性は、「子供の母親」ということで尊敬されてるし。(ただ、母親じゃない女性には厳しい一面も。これは、どこでも同じね。)
ちなみにアフリカの人の家族観て面白くって、核家族の西欧とかに対して、延長して家族を考えてる気がする。たとえば、自分のお姉さんが亡くなったらその子供を引き取って育てる、親戚で生活苦に苦しむ家族がいたら、そこの子供を引き取って育てる、等等。全然血はつながってなくても、孤児になっちゃった子を引き取って育てたりもしている。
3)男子(大人の)と子供
こっちの男の人って、子供に対して腰が軽い。出勤途中の男性がスーツを着ながら子供を抱っこひもで抱っこして幼稚園に送る姿はよく見る。
こちらのバスにはほぼ全部、「乳母車ボタン」がついていて、車高も低く車椅子や乳母車が乗降しやすいようになっている。それでも段差はあるので、乳母車(車椅子も)の人がいると周囲の男性はぱぱーっと走り寄って、みんなで乗り降りを手伝います(もちろん女子も手伝うけど、男子がいたらその人が手伝う)。中高生の男の子でも。結構ステキ。周りに目が行ってるのが、大人だと思う。
一度、3人くらいで出口近くにたまっていて、乳母車を見ても何もしなかった男子を見たことあるのですが、それは・・・日本人だったよ・・・。(きっと出張中で忙しくて周りに気が回らなかったんだね!とか思いたいが、んーーー。)
そして、基本的に子供に寛容。大人がちゃんとオトナだからかな、という気がする。今日も、バスで隣り合わせた男の人のひざに、ちっちゃな男の子がちょろっと気躓いて男の人のひざに手をついちゃったんだけど、その男の人はとっさにかばうようにし、謝ってきた男の子のお母さんにも、ニコってしてました。不良っぽい男の人なのに!(って、私の外見からの偏見がひどいのか?)
(初出2007年11月)
職業、ゴルゴ13。
英語の授業が一緒の日本人職員の人とランチ。霞ヶ関より出向中の、むちゃドメスティック、安定志向の方。
これまでお互いがどういう仕事をしてきたかを話してたときのこと。私の話を一通り聞いて彼が言った言葉。「あなた、ゴルゴ13みたいですね。」
それ、前にも日本の別のお役所でお話した後に、聴講していた人に言われたことある。ゴルゴ13、読んだことないんだけど、私の仕事の話とすごく似ているそうな。読んでみようかな。
(初出:2007年10月)
「どうすれば国連に入れるんですか」
立て続けに、「仕事探してます」、「どうすれば国連に入れるんですか」、という問い合わせを3本受けた。2本は日本人の女の子たちから。1本は、ウガンダ人の女の子から。
日本人の子たちのは、まあ置いておこう。日本人によくある質問だった。「国連に興味があるんです。あなたの経験を聞かせてください」というもの。
経験?どんな?国連といってもいろいろだけど?と思う。
無視すればいいんだろうけど、同僚や知り合いの紹介で回ってくるのが大半なので、無碍にもできない。
それより、気になったのはウガンダの子の例。私より2つ年上の彼女(30代半ば)は、本国で大学を出てからジュネーブに来て、インターン(という名の無給労働者)をいくつかしても就職のチャンスがなく、ビザが切れるのでこっちの大学に入り、その大学も修了間近なので履歴書を持って職探しにうちの会社に来たのだ。
最初は、「◯◯(Hannahの専門分野)について聞かせてください」ということで私が借り出されたのだが、ふたを開けてみれば「仕事をください」。どれくらいこの分野のことを知っているのか質問を振ってみたけれどあまり響きは良くなく、ほんとにこのテーマに興味あるの?という印象。
でも・・・。自分が彼女だったらどうするだろう?
祖国にろくな職はなく、海外で勉強するにも自国のパスポートではビザ取得は至難の業。国連に勤めたくても、実際に勤めている同国人は少ないので情報を得ることも難しい。国籍が違うだけでのハンデって、やっぱ否めないよな、と思った次第。
私のこれまでの観察から思うに(だから、独断と偏見も強いと思う)、自国にいいお仕事のチャンスがなかなかない人は、一度国際機関に職を得たらそれにものすごくしがみつく気がする。どこの国の人だってしがみつくけど、その中で、「帰る国がない、あってもとても今の生活水準をキープできない」という思いが他の国の人より強い人はいる。
翻って、日本人だと、職選びをするときは、仕事の内容、やりがい、なんていう、考えてみれば悠長な基準で選べたりするので、改めて日本は、いろいろ大変なこともあるけれど、やっぱり恵まれてるなあ、と思ったんだった。
でも、チャンスを求める人の中から誰を選ぶかで、最後の最後で基準になるのは、やっぱり「賢いか賢くないか」だと思う。どんなにハンデがあって、今もっている知識や経験に限りがあっても、新しいチャンスを目の前にしてその状況を迅速に飲み込んで、柔軟に対応していける、賢さ。 成績がいい、という意味での賢さでは決してない。
それがないと、慇懃に、でもばっさりと切られると思う。そういう意味では、平等なのかな、この世界。
それでも、コネとかを駆使して生き残っている人はいる。それはそれで、そういうスキルに長けてるということ、なのかな。でも、コネだけで生き残っている人は、めったにいない。
(初出2007年9月)
エレン。24歳。元、将軍。
昨夜、一緒にリベリア出張に来ている同僚の親友のお家へお呼ばれした。お呼ばれされた先は、エレンという、24歳の女の子のお家。エレンというのは、もちろん仮名。
実は彼女、15歳くらいの時に戦争が始まって、自宅が襲撃され、目の前でゲリラに両親を殺され、自分も6人の兵士にレイプされ、その後難民で隣国へ逃げたが国に戻って武器を取り、最後には将軍にまでなった人。
とてもこういうバックグラウンドがあるようには見えない、すごくかわいい、一見普通の女の子。(ただ、おみやげに持って行った50キロの米袋をひょいっと頭の上に担いでいたが・・・)
戦争当時はブラック・ダイアモンドと呼ばれてすごく有名だったらしい。一緒に行った運転手さんが、彼女の顔を見てびっくりしていた。本人は目立ちたくないので、なるべく表に出ないようにしているそうだ。
戦争が終わってからは、武装解除を経て、自分の殺された友達の子供、自分の子供2人など、総勢9人を面倒見ている。失業率80%のこの国で、学齢期に学校に行く機会を失った彼女はもちろん無職だが、何とかしのいでいる。なのに、私たちのためにフフ(カッサバで作ったおモチみたいなの)とお魚のスープを用意していてくれた。
ついこないだ高校の卒業資格を取ったそうで、次の学校にすすみたいと思っているところ。私の同僚は彼女について本を書いていている。昨夜は、その本に載せる写真を一緒に選んだ。
戦争の前の写真、迷彩服を来てる妊婦姿の写真、戦争中病気でみすぼらしい病院(とも言えない)のベッドで横たわり死にそうになっていた頃の写真、一緒に戦って殺されちゃった女の子たちの写真、武装解除した時の写真・・・いろいろあった。
死んだ女の子たちは、明るい表情の子もいれば、死んだ目をした子もいた。同じ部隊にいた子達は、ほとんど死んだようだ。生き延びた子と一緒に武装解除に行ったそうだが、その数は7、8人。
戦争なんて全く意味がない、ってことを言いたい、とのこと。そのために、この本のプロジェクトも同意したと言っていた。くしくも今日は日本では終戦記念日でしたね。
今でも、というか、今になって、戦争のころの悪夢を見て夜暴れると言っていた。自分がレイプされそうになっていて、必死に抵抗しているところとか。この国は、彼女だけじゃなく、国民のほとんどがこうしたトラウマを経験している。そして、人口300万人のこの国で、精神分析医はたったの1人しかいない。
(初出:2007年8月)