HannahLee's blog

脱藩☆女子!〜海外で働いている日本人女子の赤裸々ワーク・アンド・ライフ

紛争とか軍とか戦闘とか。友人、知人、出会った人が話してくれたことのメモ。

また何か思い出したら書き足します。
 

「爆撃も、だんだん慣れてくるっていうか。夜中に爆撃があっても、眠くて眠くて、ベッドの中から起き上がれなくて、このまま寝ていて死んだ方が起きて逃げるよりいいって思ったりした。」南オセチア、10代終わりか20代初めの男性。彼が小学生のころ、ソ連邦が崩壊したころ民族紛争が起きていたオセチアの首都に住んでいた頃の経験。

 
「人っていうのは、殺そうと思ってもなかなか死なないものなんだよ。首を切ろうとしようとするだろう?人の体っていうのは、なかなか、切れるもんじゃないよ。ものすごい力がいるんだよ。」グルジアとの武力紛争に戦闘員として参加していた、アブハジア人の男性。
 
「別に、グルジア人、アブハジア人だからっていうことで最初から憎み合う訳じゃない。若い頃、トビリシ(グルジアの首都)で、陸上競技会に出てたんだよ。俺、結構走るの早かったんだよ。でも、いざ入賞するしないになると、アブハジア人だからって、俺は、レースに勝っても、数には入れてもらえない、賞はもらえないってなって。そういうことが、積み重なると、さ。」グルジアとの武力紛争に戦闘員として参加していた、アブハジア人の男性。
 
(私が覚えたてのグルジア語で「乾杯」(ガギマルジョス)と言ったら)「それ、どういう意味か知ってるか?もう一度俺にそれを言ったら、殺すぞ(笑)」グルジアとの武力紛争に戦闘員として参加していた、アブハジア人の男性。ガギマルジョスは我らに勝利を、の意味。
 
「戦っていたころは、敵だった。でも、戦争が終わって、戦場で経験したことは、戦争に行ってない家族や友人とは共有できない。自分たちの心、魂をわかれるのは、同じ戦場で戦っていた、当時の敵だった、元兵士達なんだよ。」アゼルバイジャンのバクーでとあるNGOが主催した元兵士など紛争に関わった人たちの小さな会合で。
 
(ちょこっと背景説明)
ソ連が崩壊して直後のコーカサス地方では、アルメニア人とアゼルバイジャン人、グルジア人とオセチア人やアブハジア人が民族浄化と言える凄惨な殺し合いをしていた。ソ連が崩壊したということは、ソ連軍もなくなったということ。独立間もない国には、自分たちの軍や警察、司法制度もまだなかった。そうした、制度もきっちりしていないなか、かつ警備がザルになった軍施設から武器を持ち出すなどして、普通の一般人が数多く紛争に参加した。(多くは男性、しかし、中には女性もいて、とある国で有名なスナイパーは女性だった。)停戦を迎え戦火はやんでも、PTSDで苦しむ男達がいっぱいいた。大抵は、アルコール、そして身内の女性への暴力へと向かった。本人達も苦しく、でも、どうやってその苦しみから抜け出すのか、戦場での経験を共有できるのかわからない。そんな中、一番理解し合えたのが、かつて戦場で殺し合った敵側の民族の元兵士だった。こうした元兵士のサポートをしているのは、ベトナム戦争で戦ったアメリカの元兵士の団体だった。
 
「虐殺の集団墓地が見つかったって報告があったから、状況を確認しに行ったの。現地について、地元のチームに、集団墓地らしきものは見当たらないんだけど?って聞いたら、あなたが今立っているその土の下よって言われた。」コンゴ東部で、同僚が。
 
「何になりたいかって?傭兵だよ。俺は戦争中怪我して脚をやっちゃったから、兵士では金を稼げない。でも、怪我してない連中は、今みんなコンゴで傭兵で稼いでるから。」リベリアで、元兵士の少年と。彼は紛争中の怪我で脚を一本切断した。
 
「私たちはコンゴ人、それも女なの。ちゃんとした扱いなんて、値しないの。」職場の公共トイレを開けたらその床でお弁当を広げ昼食をとっていた、コンゴ人の清掃スタッフの女性が3、4名。そのうちの一人に、皮肉まじりに言われた言葉。
 
「最近、レイプ被害がとみにひどい。朝、まるで、朝食のクロワッサンを買いに行くみたいに、じゃ、レイプしてくるって言って、気軽に行く感じなんだよ。」人道援助団体の職員が、コンゴ東部の様子について。
 
(他のティーンエイジャーの女の子達と共に従軍中だったころの写真を見せながら)「この子?死んだ。この子?死んだ。この子?死んだ。」リベリアで、元リーダー格の兵士だった、20代初めの女の子。
 
(真っ昼間に目抜き通りで銃をこめかみに突きつけられて引き金を引かれた私に)「え?そんなことされたの?そうかあ。何年か前は、そういうことは出勤途中では日常茶飯事にあったよ。」グルジアの首都で、知人が。ピストルやライフルなんかの小型武器が流通していて、武器を使った暴力や犯罪は日常茶飯事だった。
 
(欧米メディアが武力紛争の原因は民族、エスニシティ、ナショナリズムだと言うことに対して)「そんなの嘘だよ。ギャング同士の抗争みたいなもんだよ。俺の女をあっちの男が寝取った、復讐だ、で、機関銃でバンバンバン、だよ。」武力紛争下のグルジアから避難してアメリカにきていた、グルジア人の友人。
 
このグルジア人の彼は当時17歳で、母国のお母さんと2週間に1回電話で話していた。その度に、今回は幼なじみといとこが殺された、とか聞かされていた。彼は留学という形で暴力から逃れて来れたけど、国に残った男の友達は、大抵亡くなったそう。「そんなに自分の知っている人の多くが亡くなって、どういう感じなの?」って聞くと、「死んだ人は死んだ人。ただ前を見るだけ」と言った。
 
「国境の向こうのルワンダから、みんな、走って逃げて来るんだって。一人の男の人は、斧で首を切られたんだけど、その、取れそうになっている首を両手で押さえて、走って来たって。」ルワンダ虐殺のとき、コンゴ側で難民救助にあたっていた同僚から聞いた話として。
 
「この国は、普段はいいのよ。だけど、何かちょっとしたきっかけで、コントロールきかなくなる。植民地化してた白人への怨嗟っていうのは、すごいものがあるよ。いつだったか、ベルギー人の女が運転してた車が交通事故を起こしたんだけど、そうしたら、周りの民衆が集まって来て、その女の人を死ぬまで殴り続けてたよ。」コンゴの首都、キンシャサで。
 
「こんな私の話なんか聞いてくれてありがとうね」と、半ば吐き捨てるように言った、グルジア人の20代中頃の、知人女性。その後、彼女は、小さな息子を残して、ビルから飛び降りた。ソ連崩壊後、混乱が続いたグルジア。多くの若者が奨学金を得て、または私費で、アメリカへ留学した。あるブローカーを通じてアメリカへ留学生として渡った彼女。しかし、そのブローカー組織は留学でなく、買春斡旋の組織だった。なんとかアメリカから逃れ国に帰り着き別の仕事にも就いたけれど、「一度ああいうところに関係すると、もう組織からは一生逃れられない」と言っていた。先日、別の元ソ連邦の国出身の友人と話していて、「誰でも、私たちも、彼女であり得たよね。彼女の話は、私たちの話だよね」と。
 
「軍で兵役について役立ったこと?キッチンの掃除がうまくなったことだけ。」皆兵制のスイスで兵役を経験したことのある、20代半ばの男性。軍隊生活では身の回りのことを全てやることになっている。彼の受け持ちはキッチン掃除で、それはキレイにキッチンを掃除していた。